鎌倉天園と旧跡

2022年12月7日、メンバ19名がJR北鎌倉駅に集合。これまでと異なる明月院通り先の今泉台四丁目登山口から鎌倉アルプスに入山して、天園から獅子舞谷に下り、鎌倉で、一二を争う紅葉の名所を訪ね、鎌倉宮に下山。途中、鎌倉時代を代表する「百八やぐら」や「永福寺(ようふくじ)」の旧跡や、頼朝の法華堂跡や墓、北条義時の法華堂跡、厚木ゆかりの2人の偉人、毛利季光や島津忠久の墓を巡る、紅葉と歴史探訪のハイキングを、初冬の好天のもと楽しんだ

計画書

実施報告

本山行のゴール地点「鶴ケ岡八幡宮」拝殿の石段を登る。大イチョウ2代目も見事に紅葉中。

これまで、鎌倉アルプスの入山コ-スにしてきた、建長寺口に代わり、今回は、明月院通りから今泉台住宅地に通ずる坂道を登り、今泉台四丁目登山口から鎌倉アルプスに入るマイナ-な登山ルートを選んだ。建長寺から半増坊を経て勝上献で尾根筋に至るメジャ-コースに比べ、地元の人か、マニアックな登山者しか歩かない、予想通りの自然豊かな山道だった。勝上献まで登ると、西側が開け、雪を戴いた富士山が朝日を浴びて輝いて見えた。

この先の登山道は、眺望のほとんどない樹林帯内の凝灰質砂岩や泥岩の滑りやすい急勾配のup/downが続く、なかなか手ごわい縦走路に、気を引き締めて、慎重に進んだ。

途中、「右覚園寺方面/左今泉台六丁目公園」の標識のある十字路を右折して、100mほど下ってから、東側山腹の急勾配の樹林帯内の踏み跡を辿って、200~300m進むと、大分風化が進んだ、凝灰質砂岩の断崖に上下2段にわたって、無数の横穴が並ぶ場所に出会う。その内部には、何も置かれていない横穴もあるが、壁に五輪塔や石仏像が彫られたり、頭が欠けた石仏が置かれた横穴も多く見られた。朽ち果てて、樹木に覆われたりして、かなり風化が進んではいるが、鎌倉独特の横穴式墓地の「やぐら」群にたどり着いた。案内標識の類は一切ないが、この場所が鎌倉最大級の「百八やぐら」のようだ。平地の少ない鎌倉では、武士の遺体は、この地で丸太をやぐらに組んで荼毘に付され、遺骨はこの横穴に埋葬されたそうだ。

大平山鎌倉市最高地点159mの標識のある岩峰先の広場で昼食を済ませ、茶店のある転園から、分岐標識に従って、紅葉の名所「獅子舞谷」への下山コ-スに入った。今までにも増しての泥道の急勾配の下り坂を慎重に15分ほど下ると、鎌倉で、一二を競う紅葉の名所「獅子舞谷」に到着する。ここは、深い谷間の森の中にあり、樹齢数百年の大イチョウと、ヤマモミジの大樹が競うように、黄色と真紅に染まった紅葉を競い合っていた。どちらの紅葉も、見上げる高さにあり、すでに落葉が始まって、壮大な景観ではあるが、やや美しさに欠ける感はいがめない。

沢沿いの道を下ってゆくと、二階堂の住宅地に達し、やがて、大々的な発掘調査が続けられてきた永福寺(ようふくじ)跡に出た。この寺は、頼朝が滅ぼした義経や藤原一族の菩提を弔う寺として、頼朝の命により、平泉中尊寺に模した、前庭に広大な池を持ち、中央に二階堂(本堂)、右に薬師堂、左に阿弥陀堂の三堂を配した、大変立派な寺院であったようだが、1400年代の戦乱で焼失。以後、再建されることなく放置されたままになっていたが、最近発掘調査が進み、池跡や三堂の礎石が発掘されて、永福寺史跡として整備されたそうだ。

池畔の説明板のQRコードにスマホをかざすと、専用のアプリがインスト-ルされ、スマホ画面に映し出された往時の永福寺三堂のCG画像を興味深く眺めた。また、TTC25周年を記念して制作したスポ-ツタオルを掲げ、参加メンバ全員揃って記念写真におさまった。

この後、鎌倉幕府討幕の魁となった護良親王を祀った鎌倉宮、頼朝が大宰府天満宮からこの地に勧進して、篤く信仰したと伝えられている荏柄天神社の参拝を済ませ、厚木ゆかりの偉人の墓がある東御門に向かった。

まず、源頼朝をはじめとする源氏一門を祀った白旗神社を参拝し、すぐ隣の30段ほどの石段を登り、頼朝の墓を参拝し、その右隣りの広場にあったとされる、頼朝建立の法華堂跡を見学した。続いて、右隣の40~50段の石段を登ると、北条義時が建立した法華堂跡の広場に到着。この広場の先の崖に、たくさんの五輪塔や石仏を祀った「三浦やぐら」と呼ばれる横穴がある。1247年、三浦一族と北条勢が鎌倉で激突した宝治合戦が勃発。敗れた三浦一族とそれに味方した毛利季光一族、併せて約500人(現地説明板には~250人)が法華堂前で、自害して果てたとされる。数百人に上る遺体をこの地で、荼毘に付し、その遺骨をこの三浦やぐらに埋葬したのだという。

さらに、その奥の高みに続く、70~80段の2本の石段を登った先に、立派な三基の横穴式墓が並んでいる。中央は鎌倉幕府政所別当の「大江広元墓」、左は大江広元の四男、厚木毛利荘の主で、この地で自害して果てた「毛利季光墓」、右側は、薩摩島津氏開祖「島津忠久墓」である。毛利荘に住む毛利季光一族は、宝治合戦で滅んでしまったが、承久の乱の武功で、手にした越後の荘園と安芸国吉田荘のうち、越後に赴いていた季光の四男が生き延び、その子の一人が安芸国吉田荘に土着。戦国の乱世で、毛利氏12代毛利元就の活躍で、西国の大大名に伸上った。毛利氏の家系図には、毛利季光が毛利氏初代かつ開祖と明記されている。

いっぽう、島津氏開祖「島津三郎忠久」と厚木市の因縁であるが、厚木には、次のような伝承がある。頼朝の乳母「比企尼」の長女「丹後局」が、頼朝の子を宿し、それを知った政子が、畠山重忠に殺害を命じたが、厚木愛甲荘の武将愛甲三郎季隆に依頼して、厚木小野里に匿ったという。やがて政子の知るところとなり、愛甲三郎館は北条勢に攻められ、焼失したが、身重の丹後局を西国に逃し、摂津国住吉大社の境内で男児を出産。やがて、6歳に成長した丹後局の子は、鎌倉で頼朝と初見、元服して、育ての親の姓「惟宗三郎忠久」と名乗り、薩摩と大隅2国の地頭職に任じられ、薩摩国島津荘に館を構えたことから、島津三郎忠久と名乗り、薩摩島津氏の開祖となった。丹後局が住吉大社で生んだ島津忠久の出自については、異論があるようだが、島津氏の家系図には、頼朝と丹後局の子で、島津氏初代・開祖とされている。明治維新の大業を成し遂げた2つの雄藩、長州毛利藩と薩摩島津藩のルーツをたどると、どちらも厚木市にゆかりがあるという史実と伝承にたどり着く。また、薩長2藩の開祖の墓が、鎌倉の地で、並んで祀られているという妙を不思議に思う。

最後は、鶴岡八幡宮の拝殿に参拝し、ここで解散とした。本日の歩行数は、約22,000歩であった。