厚木七沢地区歴史散歩
計画書
実施報告
2025年1月16日、シニアメンバを中心とした12名のメンバで、厚木市七沢地区の歴史散歩を催行した。終日曇り空で、寒い一日であったが、厚木市北西部の山間に位置する七沢と小野地区の一部に残る、主として中世から江戸時代の旧跡や寺社を巡り、地元の歴史と、この地区が相模国の歴史に与えた影響について学び直す、有意義な一日となった。

◆七沢地区の三つの特徴:
(1)室町時代の15~16世紀頃に関東管領上杉氏が築いた山城「七沢城」(厚木市唯一の城郭)があり、七沢には城主上杉定正に関する伝承が多く残っている。また、この城を巡っての攻防に関しても、内容の異なるいくつかの伝承や複数の歴史学者の異説があるようだ。
(2)江戸時代初期、七沢北側の鐘ヶ嶽の東麓に大規模な凝灰角礫岩層帯が発見され、信州高遠の石工らによって、粘りと張りがあって加工しやすい石「七沢石」として、江戸中期以降、盛んに切り出され、墓石、石仏、石塔、道標、かまど、石臼等に加工され、また、敷石、石塀、石蔵等の建築材として、昭和38年に閉山するまで、近隣に広く供された。
(3)pH10.1/水温23℃の強アルカリ単純冷泉を湧出する七沢温泉は、宝永年間(1704~1710年)に発見され、古くから「くすり湯」として、里人のささやかないこいの場であったが、江戸末期頃には、湯治場として形を整え、近隣の広沢寺温泉とかぶと湯を含め、現在8軒の温泉旅館が営業中である。
◆歴史散歩のあらまし
本厚木から1日2便しかないバスに45分乗車して、最初の目的地「広沢寺温泉」バス停に到着。早速曹洞宗広沢寺を参拝し(写真②)、CL力作の七沢地区歴史ガイド資料で、広沢寺開山の経緯や本堂に安置されている豆腐地蔵のいわれ等を解説してもらった。
広沢寺創建の由緒は、伊勢原糟屋生まれの了庵慧明(りょうあんけいみょう)が、建長寺で修行後、能登総持寺で修行を重ね、曹洞宗最高位の禅師となった了庵慧明が、弟子の相模坊道了尊者(最乗寺の守り神「道了尊」として信仰厚い)とともに、相模国に戻り、大雄山最乗寺を創建した。その後、この地に庵室を結んだことに由来する(その後、禅師は伊勢原高森の道了尊に住まいを移し、1411年75歳で没した)。そののち、了庵慧明禅師の遺徳を偲んで、この地に広沢寺が建立されたという。その後、数度の火災により、本堂が焼失し、現本堂は1777年に再建された。なお、七沢城主上杉定正夫妻の墓が広沢寺裏手の山中にあるという。
広沢寺門前の七沢石で作成した「うつむき地蔵」(写真③)や広沢寺守護社「愛宕神社」(写真④)に立ち寄った。愛宕神社から30分ほど急坂を登ると、日向山に続く標高375mの見城山と呼ばれるピ-クがある。かつてここには、七沢城と伊勢原丸山城上杉館との連絡所兼見張り所として、七沢城の将兵が常駐していたという。
500mほど東に下って、南の台地を登ると、南側の旧七沢城の高みに対峙する北側台地上段に1355年開山の臨済宗徳雲寺がある(写真⑤)。往時は向かいの七沢城の堀の水を引いて池を作り、船を浮かべていたという。七沢城攻防の際の兵火によって、寺宝や古文書を含めて、諸堂は焼け落ちてしまった。その上、明治初期の神仏分離により、益々衰退してしまったが、昭和52年に地元の有志により、現在の本堂が再建されたという。
七沢の奥まったところに天台宗七沢観音寺がある。奈良時代元正天皇期(716~24年)創建と伝えられる近隣では一番の古刹である。江戸元禄期に伊勢原日向村の浄発願寺中興の祖「木食空誉上人」が鐘ヶ嶽に建立した浅間神社や禅法寺が焼失したため、焼け残った仏像等をこの寺に移したとされる。17世紀末建立とされる本堂には、七沢城主上杉定正が奉納した本尊「馬頭観音菩薩」の他、金剛力士像、多数の絵馬が、隣の勢至堂には富士浅間菩薩像(背丈4.85mの通称七沢大仏)が祀られており、お堂の扉は常時解放されていて、間近からこれらの仏像を拝観できる(写真⑦)。また、この寺は、長い間、住職不在であったが、15年度ほど前に比叡山延暦寺から住職が赴任。以後、毎年春秋の2回、山伏僧による火渡りの神事や相模神楽の奉納等の定例行事が催行されている。動物の神様を祀るこの寺の境内には、放し飼いのウコッケイやニワトリが、大声で鳴きながらにぎやかに走りまわっている中、参拝・見学を済ませた。
6軒の旅館がある七沢温泉の中で、風格のある木造建築の「元湯玉川館」(明治35年創業)は、多くの文人に愛された旅館であった。玄関先には厚木が生んだ農民作家「和田伝」の文学碑があり、庭園に降りると、童謡「夕焼け小焼け」の作詞家「中村雨紅」実筆の夕焼け小焼けの歌詞を刻んだ石碑(写真➅)を見学させてもらった。雨紅は厚木実科高等女学校(現厚木王子高校)の教師で、厚木に住み、玉川館の女将山本茂子が雨紅の弟子であったこともあり、度々この旅館を訪れていたという。
七沢温泉には、戦中の治安維持法に関連した貴重な遺構がある。「蟹工船」の作者小林多喜二」が特高警察による監視と再逮捕の危険の中、昭和6年3月の約1ケ月間逗留した「福元館の離れ屋」が保存・公開されており、その離れを見学した(写真⑧)。多喜二逗留の間、福元館先代女将ヤエさんが、官憲に知られないよう、多喜二の拷問傷の治療と世話を必死で行ったという。多喜二を福元館離れに匿ったという秘密は、現女将喜代子さんに引き継がれ、その後54年間(昭和60年まで)守られたという。
次に向かったのは七沢城址。かつての七沢城は、現在のAOI七沢リハビリテ-ション病院付近を中心にして、七沢温泉南側の丘陵上に広がっていたと推定されている。七沢病院建設の際の大規模な造成工事で、わずかに残っていた土塁等の痕跡も、ほとんど消滅してしまったという。病院横の道路際の高台に、「七沢城址」の石碑と説明パネルで、かつて七沢城がここにあったことを想像するのみであった(写真⑧)。
七沢地区内には、道祖神や石仏、五輪塔等が、路傍に点在している。我々は、代表的な3か所の石仏・道祖神を見つけ出して、確認し、手を合わせた。(1)七沢観音谷戸の道祖神(写真①);道祖神・子宝の神の標識があり、舟形光背像が4体。1体は打ち欠けて何の像か不明、2体には、文政7年(1824年)と安政5年(1858年)の文字が読み取れる。男根形石像が2個、繭玉形の石造物や平成4年の真新しい双体道祖神もあり、地元の住民に篤く信仰され、大事に保存されている様子がわかる。大部分の石像が七沢石であることから、江戸中期以降に祀られたもの思われる。どれも風化が進み、文字が読み取れない石仏が多い。(2)七沢門口の道祖神(写真⑩);セイノカミと呼ばれる道祖神が2体の舟形光背像と年代の古い宝篋印塔の一部分が祀られている。石仏には文化5年(1808年)、もう一方には宝暦5年(1755年)の年号が読み取れるという。(3)七沢馬場集落の道祖神(写真⑪);これまで何度探しても見つけられなかったが、今回手分けして捜し、路地先の民家の石塀の陰に隠れているのを発見した。角柱の文字塔には「道祖神氏子中」、台座には文化17年(1818年)の文字が刻まれている。五輪塔と宝篋印塔の一部が積み重ねてあった。
この後、玉川沿いの小道を小野方面に辿り、玉川左岸の谷戸の奥まった所に佇む、臨済宗聞修寺山門(写真⑫)を見学した。室町時代初期に建立され、34の諸堂が林立する大伽藍があったそうだが、小田原北条氏の七沢城攻撃の際、山門を除いて、すべての焼失してしまった。江戸時代の寛永年間に再興されたが、明治維新後の廃仏毀釈で、再び寂れ廃寺になったしまったという。焼失を免れた室町時代建立の山門は、素朴な建築様式ではあるが、立派な大脚門であった。さすがに、屋根部分は往時の形式での補修ができなかったらしく、トタン葺きであったのが残念だった。
最後の訪問地は、聞修寺南側の小高い丘の上に立つ曹洞宗龍鳳寺(写真⑬)である。開基は1530年ごろ、小田原北条氏の家臣「庄左近太夫」とされる。本堂には、当寺25世「護三和尚」が制作した背丈一丈六尺(約4.85m)の金色に輝く釈迦如来立像が祀られており、また、本堂天井には、雪舟13代長谷川雪嶺が15畳ほどの天井一杯に描いたダイナミックな龍の絵が目を引く。龍鳳寺はお釈迦様の寺として親しまれ、4月8日の花まつりの日には、近隣からの参拝客で賑わうという。普段本堂は施錠されて中に入れないが、今回、CLが住職にお願いして、特別に本堂内に入れていただき、じっくり拝観することができた。龍鳳寺の見学終了後、近くの玉川農協前バス停で解散し、それぞれ家路についた。
なお、昼食は七沢の寿司処末広の個室で、休憩を兼ねてゆっくり寿司をいただいた。また、2年ほど前にオ-プンした「食の市七沢」に立ち寄り、多くのメンバが地元産の新鮮野菜等のショッピングを楽しんだ。
今回の七沢地区の歴史散歩は、行動時間5時間30分、歩行数約15000歩の実績をもって無事終了した。