近江路紅葉ウォ-キング

コロナワクチンの接種が進み、2021年秋にはコロナ感染が収束に向かうとの楽観的予想に基づき、人出の少ない紅葉の名所を巡り、うまいものを食し、温泉に浸かり、現地までは自動車で゙アクセスできて、2泊3日行程でウォ-キングできる候補地として、近江路にターゲットを定めて実施した。

血染めの紅葉として有名なモミジに彩られた湖東三山金剛輪寺三重塔

計画書

実施報告

◆11/17(水) 一日目

最初の目的地、湖東三山「西明寺」(834年創建の天台宗古刹、紅葉の名所)に到着。参道横の駐車場に車をつけると、鮮やかな紅色に色づいた紅葉の景色を観て、今年のモミジの色づき・時季ともバッチリ当たりと直感。今年の秋は、暖かい日が続く中で、10/下旬に寒波が襲い、紅葉する間もなく、標高1500m以上の山地に降雪がある等、異常な天候で、紅葉の色づきが気になっていたが、近江路の紅葉の色づきは問題なさそうなのを確認できて、安堵した。

 中門を潜って庭園に入ると、桜の花をつけた大樹と紅葉の珍しいコラボレ-ション。この冬桜は、天然記念物指定の西明寺不断桜といい、春秋冬と1年に3回花を咲かせるという。石組と心字池が見事な国指定の名勝庭園「蓬莱庭」を鑑賞してから、山道をひと登りして、紅葉に彩られた本堂(鎌倉時代初期建立の国宝指定第1号)、三重塔(鎌倉時代後期建立の国宝)、二天門(室町時代初期建立の重文)へ。かつて天台宗のこの寺の山内には、17の諸堂と300に及ぶ僧坊があったそうだが、織田信長の比叡山焼討ちの直後に、織田軍に焼き討ちされ、僧坊は悉く焼失したが、最奥に位置する、本堂や三重塔は火難を免れ、多数の仏像とともに現存しているという。本堂内に安置されている薬師如来像、二天王立像、日光・月光菩薩像、十二神将像等の平安~鎌倉時代作の多数の仏像群を拝ませてもらった。帰路は、紅葉に彩られた石段と緩やかな下り坂を下って、約40分間の西明寺参拝を終えた。

 次の訪問は車を南に7分走らせた場所に位置する金剛輪寺。寺前の大駐車場は、大型バスを交え、多くの車で埋め尽くされていた。この寺は741年行基によって開山され、850年に天台宗の大寺となり、数百の僧坊があったという。1573年、近江国守護大名六角義賢に味方したとして、織田信長によって、百済寺とともに、焼討ちに遭い、僧坊は悉く焼き払われたが、当山僧侶の機知により、本堂(1288建立の国宝)、三重塔(1246年建立の重文)、二天門(室町時代建立の重文)等が難を逃れ、現存している。本堂には、行基作とされる本尊聖観世音菩薩像をはじめ、阿弥陀如来像、不動明王像、毘沙門像、四天王像、大黒天、十一面観音像等の主として鎌倉期に作成された重文指定の仏像群が多数祀られており、至近まで近づいてじっくり鑑賞させてもらった。

入口の黒門から、本堂まで、2kmほど続く長い長い上り坂と石段の参道の両側には、千躰地蔵が並び、二天門を潜った先に佇む本堂や三重塔の周りには、古来より血染めの紅葉と呼ばれる、色鮮やかモミジが林立している、見事な紅葉の景観に感激し、メンバ全員がカメラやスマホで、場所を変えアングルを変え、紅葉の写真撮影に熱中していた。本堂まで登り、仏像群を拝顔したあと、足を延ばして三重塔を見学してから、駐車場に戻るまでに、湖東三山最長の96分を要した。/

  三山最後の百済寺は、南に車を30分走らせた鈴鹿山脈の西山腹に位置する。百済寺は聖徳太子の命によって、606年に創建された近江国最古の寺とされ、平安中期以降、天台宗の寺院として、一千坊を擁する大寺院になった。そんな百済寺の景観を、イギリス人宣教師ルイス・フロイスが帰国後に「地上の楽園」と賞賛したという。山麓に位置する山門(赤門)から長い上り坂の参道が続き、その左側に僧坊が立ち並び、要塞を思わせる大伽藍だった。しかし、これまで戦火や火災に6度も見舞われ、とどめを刺したのが、天正元年(1573年)4月の信長による焼討ちで、壮大な伽藍は悉く廃塵に帰した。百済寺近くの鯰江城に立てこもる六角義賢の子「義治」を信長軍が猛攻すれど一向に落ちない原因が、天台宗総本山延暦寺を焼き払った直後であるにもかかわらず、信長の命に逆らって、百済寺の僧侶達が密かに鯰江城に兵糧を運び込み、籠城する六角勢の妻子を百済寺内に匿っていることを知った信長が、百済寺を悉く焼き払い、それまで一大景観を誇った百済寺は石垣と、二百坊跡、七百坊跡の地名を残すのみの廃墟と化してしまった。

 徳川が天下を取ったのちの1650年、広大な石垣遺構の中に、本堂、仁王門や本坊「喜見院」が再建され、百済寺が復活した。特に再建された本坊喜見院は、滋賀県随一の池泉回遊式鑑賞庭園として知られ、また、「天下遠望の名園」とも称され、日本紅葉名所百選に選ばれている紅葉の名所として全国的に知られている。

 我々は、赤門と本堂のほぼ中間に位置する本坊喜見院下の駐車場に車を留め、売店店頭に並ぶ松茸の強烈な香りを嗅ぎながら、本坊喜見院の天下望遠の名園に向かった。途中、近江清酒発祥の酒「百済寺樽」を販売しているのが目についた。かつて、百済寺の僧坊酒「百済寺樽」として作られていたそうだが、焼討ちによって途絶えていたものを、350年後の2017年に復活させた清酒で、百済寺でしか入手できないレアものだという。

 本坊喜見院の庭園に入ると、色鮮やかなモミジに彩られた回遊式日本庭園。池の中に設えられた踏み石を渡り、濡れ縁に腰を下ろして、松の緑とモミジの紅のコントラストが見事な庭園を愛でる観光客に交じり、しばし休憩。庭園の裏手の斜面に登ると、この庭の愛称となっている「天下遠望の名園」の由来となる遠望台がある。眼下には、喜見院の瓦屋根の合間に紅葉樹が見事に配置された庭園、視線を上げると、近江平野が広がり、その先に独立峰の三上山(近江富士432m)や長命寺山(333m)等の峰々の間から琵琶湖が垣間見え、彼方にはピラミダルな比叡山とその右に連なる比良の峰々の大パノラマが広がる。これが天下遠望の景色の由来のようだ。

 高い石垣を見上げながら、表参道の石段を登り、門柱の左右に大きな草履か下がった仁王門を潜ると、1650年に再建された本堂(重文指定)に到着する。これが、五木寛之の「百寺順礼」の中で、「石垣にそびえる空中楼閣」と形容された百済寺本堂のようだ。傍には、信長の焼き討ちの猛火に耐えて見事蘇生した千年菩提樹。こんな大樹の菩提樹は初めて見た気がする。 本堂の中に入ると、焼討ちの際、何とか持ち出して焼失を免れた、本尊十一面観音(秘仏)の前立十一面観音像と並んで、平安末期~鎌倉初期に活躍した院派仏師作と伝わる如意輪観音半跏思惟像と聖観音像が並ぶ。この2つの観音像は、我国に現存する美仏の代表とされ、信心深い方や仏像マニアにとっては、一生に一度は何としても拝見したいと願う観音様だという。 TTCメンバも至近距離から、神々しい美貌の観音様のお姿を存分に堪能させていただいた。

◆11/18(木) 2日目

 朝は宿で少しのんびりして9時に出発し、車で20分の距離にある安土城趾(国指定特別史跡)へ。まだ朝が早いせいか、中学生の遠足と思われる団体がいたが、大手門口の大駐車場に駐車する車は、まばらだった。一人700円の拝観料を払って(一昨年までは無料だった)、大手門口から入場すると、標高199mの安土山頂上に位置する天守閣跡まで400段/標高差約110mの大手道の石段が延々と続き、その両側には、石垣が段々に積み上げられた大名屋敷跡。一見したメンバは、そのスケ-ルの大きさに、大いに感動したようだ。

 大手門を入ってすぐ左には、石垣が何層も積まれた羽柴秀吉邸跡、その右側は前田利家邸跡、その上部には、徳川家康邸跡(現在は摠見寺仮本堂がある)が続く。幅が10mもあろうかという石段を登ってゆくと、石段のところどころに、石仏が使われていることがわかる。信長が時の将軍足利義昭を擁して入京入し、畿内をほぼ手中に収めた、天正4年(1576年)、羽柴長秀を総奉行として、この地に築城を開始し、わずか3年後の天正7年(1579年)5月に、我国で初めての天守閣を有する平山城「安土城」を完成させた。短期間で完成させるため、大量に必要だった石積みの石は、焼討ちによって、廃墟と化した百済寺跡等から調達したようで、その中に石仏等の石も混じり、その石が石段の石として使われたようだ。

黒金門跡を通って、二の丸跡に登り、信長公本廟を参拝した。秀吉が、この地に信長の遺品(太刀、烏帽子、直垂など)を埋葬して、本廟とし、本能寺変から1年後の天正11年6月2日に織田一族や家臣を集め、盛大な一周忌法要を行ったと伝えられている。今は広場となっている本丸跡から天守閣跡に登った。今は背丈ほどの高さの石垣に囲まれた東西、南北それぞれ28mの台地に礎石が1.2m間隔で、整然と並ぶだけであるが、この部分が穴蔵(地階)にあたり、この上に、五層七階、高さ46mの豪壮な金ピカの天守が聳えていたという。このような木造高層建築は我国初であり、宣教師ルイス・フロイスによれば、ヨ-ロッパにもあると思えない豪壮な天守だったという。

天守の石垣に登ると、眼下に琵琶湖や彦根、長浜の街並み、、左手には伊吹山が見渡せた。築城当時は、大手門の南のみ開けた平地であったが、残る三方は琵琶湖の内湖に囲まれた要衝の地であったという。

帰路は、西側に方向を変え、旧摠見寺跡を経由して下山した。信長が、安土城を建設する際、余所にあった臨済宗のこの寺をこの地に移設したという。信長に歯向かう天台宗僧侶や一向宗の信徒に対しては、容赦ない弾圧をしたが、それ以外の宗派の寺院や神社、キリスト教には寛容だった。安土城は天正10年(1582年)6月2日未明の本能寺の変後、中国毛利攻めから急ぎ戻った秀吉に、山崎の合戦に敗れた光秀が、近隣の村人に殺害された。混乱を極めていた6月15日に、突如全焼し、完成してたった3年ではかなく消滅してしまったという。火災を免れた摠見寺は1854年に火災に遭い、三重塔と二王門を残して全焼して、今は廃墟となっている。本堂跡から垣間見える西側山麓の街並みが、当時、楽市楽座が立って、繫栄したという安土の城下町の名残のようだ。

2時間10分の安土城趾見学を終え、安土城天守最上階の6階と5階を原寸大で再現した「信長の館」に向かった。この施設は、1992年に「スペインセビリア万国博覧会」日本パビリオンのメイン展示物として、当時の記録に基づき、東大、東京芸大、京都芸大等の指導の下に、制作された展示物を、旧安土町が貰い受け、内装や外装をさらに忠実に再現・追加して、現在の大きなド-ム内に収容展示するようになった。

天守5階部分は朱塗りの八角形外壁(床面積:約30坪)に、出土した瓦をもとに再現した庇屋根、内側は、壁と天井は総金箔貼りで、背後の金箔の襖絵には釈迦説法図、天井には天女が飛ぶ「天人影向図」や左右に2体の飛竜が飛ぶ「双竜争珠図」が描かれ、朱色の漆塗り床の中心に、信長が座る、2枚の畳が置かれいる。最上階の6階は、正方形で、その外壁には、10万枚の金箔が貼られ、金箔の鯱を乗せた大屋根が載っている。内部は、当時信長が「狩野永徳」を中心に描かせた「金碧障壁画」(中国の故事に倣った孔子や老子図等)、金伯の格子天井には花鳥獣画、床は黒の漆塗りと、とてつもなく豪華絢爛な造りに、特に初見のメンバは、大いに感激したようだ。

派手好みで、粗暴な振る舞いが目立つ信長であっても、天守5階の内外装は、宇宙を表す八角形の空間に、仏教の世界観である極楽浄土の理想郷を描かせていることから、何万人もの一向宗門徒を殺害し、天台宗の寺院を容赦せずに焼討ちした信長自身、やはり根本では、仏教思想に深く帰依していたことを窺わせるものであろう。

隣接する県立考古博物館にも立ち寄り、安土城趾の発掘調査で発見した出土品や、築城当時の安土城の立体模型図などの展示物も併せて見学。合わせて1時間の見学を済ませて、次の目的地、近江八幡に。日牟礼八幡神社近くの老舗「たねや日牟礼乃舎」で、看板メニュ-の野菜和食膳を注文。立て込んでいて、少々待たされたが、土間中央の自在鉤の付いた囲炉裏を囲むように設えてある四方形のテーブルを貸切にして、ドライバ-を含む10名全員で゙、近江野菜や近江八幡の代表的な食材である赤こんにゃくや丁字麩に少々の近江牛を使った料理と黒米ご飯をおいしくいただいた。食後、日牟礼八幡神社を参拝し、近江八幡観光協会おすすめの八幡堀から、街中を一回り散策するコ-スを足早に歩いて、約3時間の近江八幡観光をフィニッシュとした。

 びわ湖を右に見ながら、湖岸に沿って、琵琶湖大橋に至る「さざなみ街道」を約30分ドライブし、琵琶湖大橋を東岸から西岸に渡って、橋のたもとの湖岸に位置する、道の駅「琵琶湖大橋米プラザ」で、ショッピングを兼ねてのトイレ休憩。ここには、ネ-ミングの通り、関西の米どころ「近江米」や、地元の野菜、琵琶湖八珍等の魚介類加工品や近江のお土産品を販売しており、メンバは、それぞれ土産の品物を購入したようだ。/

 本日最後の訪問地「満月寺浮御堂」には、混雑する幹線道路を避け、カーナビの指示する湖岸沿いの近道を10分走り、日没間近の4時20分過ぎに到着した。浮御堂は、枝ぶりの良い松の大木の根本付近から、琵琶湖に向かって、30mほどせり出した木橋の先に幅・奥行きとも5間ほどの小堂(堂内には阿弥陀仏千体が安置されている)が琵琶湖に浮かぶように祀られている。近江八景の一つ「堅田の落雁」として、古くから琵琶湖の名勝地として知られており、これまで高名な俳人が多く訪れ、浮御堂の景観を詠んだ句を、境内の句碑に残している。 その中から代表的な芭蕉の句碑《鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂》。

◆11/19(金) 3日目

 宿を8:40AMに出発し、至近の西教寺に向かう。9時開門直前に駐車場に到着。本日一番の入場者となる。受付を済ませて参道に入ると、見事に色づいた紅葉のトンネルに息をのんだ。事前に得ていた紅葉情報によれば、湖東に比べ、湖西の紅葉の色づきが遅れているとのことで、心配していたが、しっかり色づいているモミジ並木を見て一安心した。

200m続くモミジの参道を進んで、大本坊の受付から、本堂(1739年上棟、重文)→客殿(伏見城から1598年移設、重文)→書院→二十五菩薩と順路に従って参観した。まず、本堂の中央に鎮座する、黄金に輝く巨大な本尊阿弥陀如来坐像(重文)に圧倒された。伏見城から移設した客殿は、桃山御殿と別称されるように桃山様式を伝える数少ない現存建物だという。客殿には、鶴の間、猿猴の間、賢人の間、花鳥の間、上座の間、茶の間があり、襖や壁、腰障子には部屋名の由来になっている鶴や猿猴等、狩野派の絵師が描いた豪華な絵を見学して回った。北側の廊下に廻ると、小堀遠州作の庭園があり、客殿と書院の間にも大規模な枯山水の庭園、書院の東側には穴太衆作庭の石庭があった。また、本堂・客殿・書院を繋ぐ回廊には、等身大の二十五菩薩の石像群が並び見応えがあった。

 堂内参観を終えて庭に出ると、本堂横には明智光秀が寄進した鐘楼の梵鐘(平安時代作、重文)があった。もとは坂本城の陣鐘だったものを光秀が寄進したという。墓地入口の二十五菩薩像に並んで、明智光秀・妻熙子・明智一族の墓があり、墓前で足を止め、手を合わせた。明智光秀は比叡山焼討ちの功績により、その登山口にあたる坂本に領地をもらい、坂本城を築城してこの地を治めることになったが、領内の西教寺が比叡山焼討ちで大きな被害を受けたことに心を痛め、西教寺の門徒になり、この寺を明智家の菩提寺と定め、寺の復興に尽力したという。

 次に訪れた日吉大社は坂本の比叡山ケーブル山麓駅近くに位置する。2100余年前創建され、全国3800余社の日吉、日枝、山王神社の総本宮であり、平安京の表鬼門鎮座社、比叡山延暦寺の守護社とされる。広大な境内には西本宮と東本宮(本殿はいずれも国宝)の他、沢山の摂社が点在し、境内には3000本のモミジがあり、滋賀県有数の紅葉の名所として知られている。 神仏習合を象徴する「合掌鳥居」と呼ばれる独特な形の山王鳥居を潜り、紅葉に彩られた鬱蒼とした樹林の中に続く参道を辿って、東西2つの本宮の荘厳な本殿や点在する沢山の摂社に参拝しながら、境内を一巡し、紅葉ウォ-キングを堪能した。/

 次に訪問したのは、大津市中心に近い圓城寺(別称:三井寺)。天台寺門宗の総本山で、天智・弘文・天武天皇の勅願によって建立された名刹で、東大寺、清水寺、延暦寺とともに、本朝四箇大寺に列せられる大寺院である。境内に天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があることから三井寺とも称されている。長い歴史の中で、度々兵火で焼失したが、豊臣秀吉や徳川家康の尽力で再興され、国宝・重文級の貴重な寺宝を多数維持している。桜と紅葉の名所で、境内には西国33所観音霊場14番札所がある。

 仁王門から入場し、釈迦堂(重文)で本尊釈迦如来に参拝。北政所の寄進により、1599年に再建された桃山時代を代表する建物とされる金堂(国宝)内に進み、本尊(秘仏)弥勒仏の前立に参拝し、内陣裏に鎮座する多くの仏像を参拝。近江八景の一つ「三井の晩鐘」として有名な梵鐘を2名のメンバが撞いた。三井寺の別称の由来となる霊泉を覆う閼伽井屋(重文)の格子の間から、霊泉が沸く、奇妙な音を聴き、左甚五郎作の龍の彫刻を鑑賞。次に訪れたのが霊鐘堂。「弁慶の引き摺り鐘」(重文)と名づけられた擦り傷だらけの大梵鐘は奈良時代のもので、三上山(近江富士)の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰ったとの伝説がある。室町初期建築の一切経蔵(重文)は、残念ながら、回転式の八角輪蔵が廻せなかった。紅葉に彩られた三重塔(家康寄進)を写真に収めて、参道に戻り、観音堂方面に進むと、紅葉のトンネル。最盛期には少し早いかな?と思われたが、きれいに色づいたトンネルを歩き、階段をひと登りして、観音堂の本尊如意輪観音(平安時代作,重文)を参拝した。眼下に広がる琵琶湖の景観を見ながらひと休みしたのち、長い階段を下り、仁王門前の駐車場に戻り、1時間20分の圓城寺紅葉巡りを終了した。、

 大津市街を走り、瀬田唐橋手前を右折して、瀬田川右岸を下流に向かって2kmほど進むと、最後の訪問地「石山寺」に到着。石山寺の創建は、747年聖武天皇の念持仏をこの地に安置した堂舎建立とされ、石山寺の寺名は、境内の珪灰岩の奇岩(天然記念物)に由来し、花の寺、西国33所観音霊場13番札所としても有名である。また、紫式部が源氏物語の構想を練るため、この寺の本堂に7日間参籠し、眼下の瀬田川に映える十五夜の月を眺めていた式部の脳裏に一つの物語が浮かび、源氏物語「須磨巻」に登場する「今宵は十五夜なりけりと思い出でて、殿上の御遊恋ひしく・・・・」と書き綴ったと伝承されている。

東大門(重文)を潜り、参道に進むと、まさに見頃を迎えたモミジのトンネル。石段を登って、舞台造の本堂(滋賀県最古の木造建築、国宝)を参拝。本尊如意輪観音菩薩は33年に一度開帳される秘仏だそうだ。本堂横の紫式部が参篭したという部屋を外から見学してから、経蔵、宝蔵、多宝塔、月見亭、御影堂等を巡って、石山寺参拝を終了。 2泊3日の近江路紅葉ウォ-キングの全行程を無事終了し、1:47PM帰路に就く。